SSブログ

アパルトヘイト マンデラ 映像

アパルトヘイト マンデラ 映像

人種隔離政策ですか。
昔、教科書で習いました。

出典 ネルソン・マンデラ物語(日本語字幕)



アパルトヘイト マンデラ 映像


南アフリカでアパルトヘイト=人種隔離政策の撤廃運動を指導し、ノーベル平和賞を受賞したネルソン・マンデラ元大統領が5日、死去しました。
95歳でした。

南アフリカのズマ大統領は、日本時間の午前7時前、テレビを通じ、マンデラ元大統領が現地時間の5日午後8時50分、日本時間の6日午前3時50分に家族に見守られながら亡くなったことを明らかにしました。
ズマ大統領は、「われらが愛すべきネルソン・マンデラは旅立ち安らかに眠りについた。自由を求める彼の不断の闘いは世界の尊敬を集めた。いつかはこの日が来ることを分かってはいたが、この大きな喪失感が消えることはない」と述べて悲しみをあらわにしました。
そのうえで、マンデラ元大統領の葬儀を国葬にすると発表しました。
そして、国全体で哀悼の意を表するため、6日から半旗を掲げるよう国民に呼びかけました。
マンデラ氏は、1918年、イギリスの支配下にあった南アフリカに生まれ、大学在学中から、白人政権の下で行われていたアパルトヘイトの撤廃運動に取り組みました。
1962年に逮捕され、国家反逆罪で終身刑を受けましたが、獄中からも黒人解放を訴え続け、「不屈の闘士」として、世界中から尊敬を集めました。
釈放後は、白人政権との対話によって人種隔離政策の法律をすべて撤廃し、1993年、その功績が認められ、ノーベル平和賞を受賞しました。
1994年には、初めてすべての人種が参加した選挙を経て黒人として初の大統領に就任し、異なる人種間の融和と民主化に努めました。
マンデラ氏は、2010年のサッカーのワールドカップ南アフリカ大会の閉会式に出席したあとは公の場に姿を現すことはほとんどなく、ここ数年は肺の感染症などで入退院を繰り返していました。
ことし6月、肺の感染症が再発したため首都プレトリアの病院に入院したあと、9月に退院してヨハネスブルクの自宅で療養していました。
.

アパルトヘイトとは

アパルトヘイト=人種隔離政策は、かつて南アフリカ政府が推し進めた国家による人種差別で、少数の白人の既得権益を守るため政治や経済など、あらゆる分野で白人以外の人種を差別しました。
特に、オランダ系移民で作る国民党が1948年に政権をとってからアパルトヘイトは本格的に法制化され、白人だけに参政権が認められたのをはじめ、異なる人種どうしで結婚したりバスや公園で隣に座ったりすることも禁止されました。
1959年に定められた法律では、人口の大多数を占める黒人が「ホームランド」と名付けられた狭い地域に閉じ込められ、移動の自由を制限されました。
こうした差別に対する反対運動は次第に激しくなり、1960年にはデモの参加者に警察が発砲して69人が死亡した「シャープビル虐殺事件」が、また、1976年には教育現場の言葉をオランダ系移民の言葉に切り替えることに反対する黒人の学生のデモを警察が武力で鎮圧して100人以上が死亡した「ソウェト蜂起」が起きました。
国際社会でも南アフリカへの批判が高まり、1980年代には欧米諸国が経済制裁を発動してアパルトヘイトをやめるよう圧力を強めると、南アフリカの経済は次第に悪化しました。
1989年、黒人との融和路線を打ち出して政権についた当時のデクラーク大統領は、1991年6月、差別的な法律をすべて廃止しアパルトヘイトは撤廃されました。
日本も、アパルトヘイトに反対する立場から南アフリカに対する投資や一部の製品の輸出入を規制していましたが、1987年には南アフリカとの貿易額が一時、世界で最も多くなり、国際社会から「日本の規制は形ばかりだ」などと批判されました。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。